「吉田松陰先生は「地を離れて人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ぜんと欲せば、先づ地理を観よ。」と教え、自分でもこの言葉どおりに青森から長崎、熊本に至る間の一万三〇〇〇キロの道を踏破しています。山口県内の道も実にこまめに歩き、巡検、調査しておりまして、当時としてはまことにたぐいまれな存在であったと言えましょう。
こうして松陰先生は、道々の地理を究めながら多くのことを学びとり、人の道を考え、時勢を読みとり、藩や国の行末を見据え、今、何をなすべきか真剣に探究していったのであります。このような営みの中でその学問は深みと広がりを加えながら、松陰数学・思想を構想し、成熟していったのであります。そして、それは単に学問、思想だけにとどまらず、日本の国を救うための行動となって爆発し、散華しました。」
松陰先生と萩往還のかかわり「松陰と萩往還」~松陰の足跡~
①少年時代(年齢不詳)
中国前漢の司馬相如が若いころ、昇山橋の柱に王候にならなければ再びこの橋を渡って帰るまいと詠んだ故事を引用して、松陰も立派な人にならなければ、明木橋(あきらぎばし)を渡って帰ることはすまいと思った少年時代の志を思い浮かべて、安政元年、江戸獄から帰国の途中、明木橋で作った詩の中で、年齢は分からないが、少年時代、萩往還を明木まで行ったことは確かである。
②弘化四年三月(松陰一八歳)
三月二十七日、周防湯田に遊ぶということが松陰の年譜に示されているので、このとき、萩・山口を往復したことが偲ばれる。
③嘉永三年(松陰二十一歳)
北浦から赤間関にかけての海防視察の後、山鹿流兵学の一層の勉強と、海外事情・海防の研究のためにと出願していた平戸、長崎への遊学がようやく許された。松陰は初めてこの藩外遊学に希望と使命感に燃えて、八月二十五日、萩を立ち、九州に向かった。この往復に、萩から明木までの萩往還を歩いている。
④嘉永四年(松陰二十二歳)
前年の九州遊学に続いて、この度は藩主の参勤交代に従っての江戸遊学が許された。三月五日萩を立ち、山口に泊まり、翌日、小郡・大道を経て三田尻(防府市)に着いている。
⑤嘉永五年(松陰二十三歳)
松陰は前に、東北諸国遊歴の許可は受けていたが、旅に必要な過書(身分証明書)の交付をまたずに、藩邸を出発し、宮部鼎蔵らとの約束を守って東北遊歴に向かった。その罪により、帰国を命ぜられ、四月十八日、江戸を立ち、五月十二日に萩に帰着した。おそらく船で三田尻または富海(防府市)に着き、急いで萩に向かったものと思われる。他藩士との約束を破ることは、長州藩士の恥であると、敢て過書の交付を待たずに出発したことが、亡命の罪に問われたが、松陰は自らの行動は正しかったという思いから、言いようのない憤懣を抱いて帰国したのであろう。メモをとることに秀でた松陰が、この帰国については一切の記録を残していないことからもその思いが察せられる。
⑥嘉永六年(松陰二十四歳)
亡命の罪に問われ、兵学師範を免ぜられ、家録も没収され、父杉百合助にあづけられる身となった松陰を、藩主は惜しみ、一〇年間の遊学を許した。松陰は藩主の大恩に感激し、刻苦勉励、大恩に応えうる人物になろうと決心し、再度江戸遊学を志した。一月二十六日萩を立ち、三田尻の飯田行蔵宅に泊まり、富海から海上を東上した。
⑦嘉永六年
六月四日、米艦が浦賀に来たのを見て、国を守るために海外の実情を知らねばならぬと思い、長崎に来舶中の露艦に乗り込もうとして、江戸を立ち、長崎に向かった。しかし、長崎では露艦がクリミヤ戦争勃発のがめ、急きょ出航してしまったあとだったので、再び熊本を経て、十月十三日、萩に帰り着いた。
⑧嘉永六年
松陰を追って熊本から来た宮部鼎蔵、野口直之允と共に再び江戸に向かう。十一月二十四日、萩を出発し、二十六日富海から乗船東上した。
⑨嘉永七年(安政元年)(松陰二十五歳)
下田踏海に失敗して、門弟金子重之助と共に江戸から萩に護送されることになり、十月二十二日、防府の宮市に泊まり、二十三日、明木泊まりと日を重ね、二十四日萩に着いた。
少年志すところあり
柱に題して馬卿を学ぶ
今日檻與の返
是れ吾が昼錦の行
(少年のとき、志すところがあった。それは中国前漢の司馬相如が昇山橋の柱に題して、王候にならなければ再びこの橋を渡って帰らないと詠んだ故事に学び、私(松陰)も立派な人にならなければ、明木橋を渡って帰らないと子供心に誓ったものだ。ところが今日は牢駕籠に乗って帰ってきた。国禁を犯し、下田で米艦に乗って海外の事情を見ようとしたことの罪を問われたからであるが、国を思う至誠からでたもので、まことに立派な行為と思っており、今日の私の帰国は白昼の中を錦を着て帰る気持ちである。)
松陰は自らに言いきかせるとともに、病に弱っている重之助を励まそうとしたのである。
⑩安政六年(松陰三十歳)
安政の大獄に連座して、松陰は江戸送りとなった。この度の護送が今生の別れとなり、萩往還を山口、宮市へ進んだ。唐樋札場を出て約四㎞、萩城下が遠望できる最後の地点。松陰を護送する一行はここで駕籠を止め、松陰はこれが萩城下の見収めと惜別の情に堪えず、無量の思いを次の一首に託した。
帰らじと 思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな
(二度と帰ることがあるまいと決心した旅であるので、ひとしお涙がでる、涙松に立てば)
縛吾台命至関東
対薄心期質昊穹
夏木原頭天雨黒
満山杜宇血痕紅
(私を捕縛して、幕府の命令で江戸に送る。幕府の取り調べに対しては天地神明にかけて所信を述べようと決意している。夏木原の一帯は雨雲が黒く立ちこめ、満山のつつじの紅は折から鳴いている杜宇(ほととぎす)が吐く血のようであり、あたかも私の赤心を象徴しているかのようである。)
「松陰と道」より