日本三天神のひとつ、防府天満宮に伝わる「御神幸祭 (通称 「裸坊祭」)」は、西日本屈指の荒祭り。
寛弘(かんこう)元年(1004)の旧暦10月15日に、一条天皇が京都で菅原道真公を祀る、北野天満宮に初めて参拝されました。それを記念して防府天満宮に天皇の使者が使わされ、道真公のお御霊(みたま)をお慰めする祭りを行いました。これが御神幸祭の起源です。祭りの奉仕者の通称から裸坊祭(はだかぼうまつり)の呼び名でも親しまれています。
参加者は自治会や子供会、企業などの団体を中心に毎年約5000名を数え、以前は防府近郊だけでなく山陽や山陰、四国、九州からも集まっていました。
地元の子供たちが地区ごとにお御輿を担いできて・・・
鳥居の前でぐるぐる回り・・・
防府天満宮に奉納します!
御神幸祭は荒祭りということで、長い歴史の中で女性が祭りに関わることはほとんどありませんでしたが、女性たちの間から自分たちも祭りに参加したいという声が上がるようになりました。そこで昭和62年から始まったのが「天神おんな神輿」です。近年、全国各地で女性の担ぐ神輿が増えていますが、おそらくその先駆けとなる存在ではないかと思います。
近頃は、天神おんな神輿の威勢の良さは、男性を上回りそうな勢いです(笑)
祭りが始まった当初、限られた家柄や役職の者しかこの祭りに奉仕できませんでしたが、江戸時代後期に天神信仰が高まると、氏子たちも祭りに参加したいという声が高くなりました。
そこで身が清浄であることを証明すれば参加を許すということになり、祭りに参加したい人々は、防府天満宮の近くを流れる佐波川(さばがわ)で水を浴びて身を清め、裸にわずかなさらしを付けて祭りに奉仕しました。それでいつの頃からか、祭りに参加する人々は裸坊と呼ばれるようになりました。なお、現在は裸ではなく、上下とも白装束を着ける形に変わっています。
写真左下にあるのが、500kgもある御網代興の台車です。
駆け上がって来るたくさんのお御輿を運ぶ人たちの安全を守るために、階段の途中で一旦止めて声を掛ける裸坊たちが階段のサイドに立っています。
御網代興の写真です!!
御網代輿とは、薄く削った竹を編んだ輿(こし)です。道真公は亡くなられたとき、なきがらは牛車で運ばれました。御網代輿は、その牛車をなぞらえたものではないかと言われています。
御神幸祭の御網代輿は、触れると諸願が叶うと言い伝えられています。そのため、裸坊たちは拝殿から御網代輿が出てくると、なんとか触れたいという思いで御網代輿に殺到します。
午後6時、白装束を身にまとった5,000人を超える裸坊たちが、菅原道真公の御霊を移した御網代輿を、天満宮拝殿から一気に担ぎだそうとするのですが・・・御網代輿の重さは、およそ500キロ。そう簡単に運べるものではありません。しかも、拝殿を出て、楼門を抜けた先には、57段もの大石段が待ちうけています。
約500kgの御網代輿が石段を滑り降ろされるだけでも荒々しいのに、そこに大の大人たちが我先にと群がるので、男たちの喚声が飛び交い騒然とします。その光景は荒祭りの名にふさわしい迫力で圧巻です。
一行が勝間の浦の御旅所に到着すると、御霊慰めの祭典の後、道真公が勝間の浦にたどりついたときに漁師が甘酒でもてなした、という故事にちなんで甘酒による接待が行われます。
その後、神輿と御網代輿は神社にお帰りになります。
その姿を見ようとたくさんの人が待っています。
御網代輿は行きに滑り降ろされた石段を、今度は台車ごと一気に引き上げられます。ここも迫力があり、みどころです。
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500kgもの御網代興を人の手だけで引き上げるのには、相当な時間と労力が必要です。
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ついに、御網代興が引きあがりました。
御網代興が引きあがると、一気にたくさんの裸坊が境内の中に物凄い勢いでなだれ込んでいきます。
御神幸が終わると、御網代輿は境内の回廊に安置されます。この御網代輿に触れて道真公のご加護を得ようということで、その晩はもちろん翌日にも大勢の方が参拝に来られます。
たくさんの人で賑わう御神幸祭はとても迫力があり、圧巻の防府市名物です。ぜひ一度はおいでませ!!
防府天満宮においでの際にはぜひぜひ 「うめてらす」へお立ち寄り下さい。
作成:防府商業高校 岸本・末次